「招きに応えるとは」 ルカによる福音書14:1~24

深谷教会聖霊降臨節第18主日礼拝2023年9月24日
司会:西岡義治兄
聖書:ルカによる福音書14章1~24節
説教:「招きに応えるとは」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-432
奏楽:小野千恵子姉

 説教題 「招きに応えるとは」     ルカ14章1節~24節     

 「そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。『安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。』」(ルカ14:3)
 イスラエルの国も時の流れの中で、種を蒔く季節、刈り入れをする季節、毛を刈り取る時などが決められていました。つまり、紀元前4000年ころ、狩猟採集時代がおわり、人間の生活は牧畜と農耕が主流となっていったのです。牧畜と農耕からは、一週間を七日で区切り、七日目を安息日として仕事を休むと言った発想は出てきません。麦も羊も毎日水や餌(エサ)が必要です。このように考えていきますと安息日は人間の必要から決められたものではなく、神さまによって決められたものであることが分かります。
 安息日には仕事を休む。大人も子供も、男性も女性も、主人も使用人も、ユダヤ人も異邦人も、そして奴隷も、この日は仕事を休み、すべての者が神さまによって造られた被造物であり、神さまか愛され、赦されている存在であり、神さまが私たちを愛し、赦して下さっているように互いに尊重し合い、愛し合い、許し合って生きることを目指し、心身共に贖われ、神のみ言葉によって力をいただき癒される恵みの日が、神さまが定めてくださった安息日なのです。
 十戒に記されている「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジプト記20:8)と言う安息日の戒めは、人間の願望から生まれたものではなく、神さまが定め、私たち人間の幸せのために定められたものです。
 ところが、ユダヤ人たちは、自ら聖となるために、安息日をどう守ったらよいか、また、そのためにしてはいけない規定をたくさん作りました。その規定を破る者が罪びとなのです。ファリサイ(分かたれた者)派とは、罪びとと対極にいる聖なる人々です。
 主イエスは、ファリサイ派の議員に招かれ、食事をするためにその家に入られました。そこに水腫を患っている人がいたのです。主イエスは、そこにいる人々に問われました。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(14:3)と。ところが「彼らは黙って」(14:4)いました。へたに主イエスの安息日に関するこの問いに自分の考えを口にしたなら、あの人は律法を軽々しく考えている人だと思われ、ユダヤ社会の中で、生きずらくなることを恐れたのです。
 そういう社会の中で、主イエスは安息日に水腫の人を癒されました。そして、彼らに「自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(14:5)と問われたのです。彼らは、この問いに対しても何も答えられませんでした。答えが分かっていても、誰もそれを言えなかったのかもしれません。
 そういう人々をご覧になりながら「あなた方は、誰の眼差しを気にしながら生きているのか、神さまが安息日を定めた意図は何なのか」と。主イエスは問うたのです。
 元来、律法は、愛の神さまがご自分の民が「平和」で「幸せ」に暮らしていけるようにとモーセを通して与えてくださった、神さまの愛が詰まった恵みの賜物です。たとえば、本日学んでいる十戒の第4の安息日の戒めがなければ、前に述べましたように紀元前の農耕民族や牧畜民族は休みなく働き続けなければなりませんでした。そうした恵み以上に、安息日は愛の神さまの招きに応えて礼拝をささげ、体だけではなく、魂の癒しと生きていく力をいただく恵みの日なのです。それを、イスラエルの為政者たちは様々な規定を勝手に作り、民を支配する道具にしてしまったのです。そういう意味から、主イエスは、律法(安息日を含む)を為政者の手から、神の民のもとに取り戻すために来られたと言っても過言ではないと思います。「安息日は、人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである。」(マルコ2:27、28)とある通りです。
 主日ごとに神さまのもとに立ち返り神さまと霊的に交わり自分自身を取り戻し、人を見ないで神さまを見上げ神さまの御顔を拝し、物事を御心に適った判断をしつつ生きていきたく思います。
 ルカ福音書14章7節から24節には、二つの神の国のたとえが記されています。どちらも、人間、特に神の国に招待されているキリスト者の「平和」に「幸せ」に生きていく生き方が解き明かされています。
 人間の幸せは、神さまのみが与えることができる復活にあるのです。律法を守れば救われるという倫理的に生きれば救われるというのではなく、神さまに向かって生きて行くときに復活の命、永遠のいのちをいただくことができるのです。復活の命は、悔い改めを通して、「罪の生き方」、即ち「的を外した生き方」から、神さの御顔・御国に向かって方向転換をして生きて行く時、この世のつとめ、またこの世のいのちが燃え尽きた時、御国で永遠のいのちに目覚めることができるのです。前回もお話しましたように、日本の大和言葉(やまとことば)では、「幸せ」は、仕え合わせ「仕合わせ」と書いていました。仕え合い、支え合い、分かち合っていくとき、ひと言でいいますとキリストの愛に生きる時、人は幸せに生きていくことができるのです。この生き方こそ、平和を造り出す者の生き方、神さまの招きに応える生き方なのだと思います。

「愛は、律法を完成するものである。」(ローマ13:8~14)

関連記事

PAGE TOP